活動報告

2023年12月24日  「東京裁判」終結75周年に関する声明

 

防衛省・市ヶ谷記念館を考える会

 

 

 本日、「東京裁判」終結75周年にあたり、私たち「防衛省・市ヶ谷記念館を考える会」は、この終結がその後の日本の歩みにおよぼした影響をふり返り、「東京裁判」の重要性を改めて確認するとともに、私たちの年来の主張(東京裁判法廷の遺構である「防衛省・市ヶ谷記念館」活用)を重ねて訴える所存です。

 

 第二次世界大戦終了後、ソ連占領下の東欧諸国では共産主義体制の確立が進行していました。1947年、米国はこの事態に対抗してソ連封じ込め政策(トルーマン=ドクトリン)と全ヨーロッパの財政復興計画(マーシャルプラン)の実施を表明し、共産主義勢力との対決を鮮明にします。

 1948年1月、中国内戦で中国共産党優勢が報じられると、米国は対日占領政策転換を表明し、10月、日本の経済復興推進を決定します。GHQの当初の方針は、非軍事化と民主化を通じて、日本を弱体化することでした。しかし、それが日本を工業国として復興させ、東アジアにおける米国の強力な拠点とする政策へ180度転換したのです。そして、12月23日、GHQは先月に判決が下ったばかりのA級戦犯7名を絞首刑に処し、翌24日、残るA級戦犯容疑者19名を釈放し、2年前に開廷された「東京裁判」の終結を宣言します。

 

 この突然の「東京裁判」終結は、二つの点でその後の日本の歩みに深刻な影響をおよぼしました。

 

  一つは、これにより戦争犯罪の全責任を一部の指導者だけに押し付け、他の多くの指導者の罪状を不問に付してしまったことです。これは最高責任者たる天皇の免責とあいまって、戦争犯罪に対する日本国民の意識を希薄なものにする原因の一つとなりました。その結果、戦争に対する国民の評価は分裂し、国民共通の歴史認識を構築できないばかりか、近隣諸国に対する加害責任も明確にできないまま今日に至っています。

 もう一つは、この時釈放されたA級戦犯容疑者の中に、この戦争の正当性を堅く信じ、この裁判を認めない人々がいたことです。岸信介と児玉誉士夫たちはその代表でした。岸は東条内閣の重要な一員であり、児玉は謀略機関の中心人物でした。その後、政治活動に復帰した彼らは、一貫として自らの非を認めることなく、敗戦で喪失した日本を取りもどすことに執念を燃やし続けました。

 

 1952年の独立後、政権を担当した保守派には二つの路線がありました。一つは吉田茂に代表される「対米依存」路線であり、もう一つは岸や鳩山一郎に代表される「自主独立」路線です。前者は防衛・外交を米国に依存し、経済発展のみに専念するというものであり、それはまた占領統治下から独立までの長期にわたって政権を担当してきた吉田内閣の基本方針でもありました。それに対して後者はその方針に真っ向から反対するものであり、独立を契機に敗戦で失われた防衛・外交の自主性を取りもどそうというものでした。しかし、その路線を主張する岸たちも、当時の冷戦下の厳しい国際情勢と日本の脆弱な軍事能力をおもんばかると、しばらくは「対米依存」を継続せざるをえませんでした。彼らは米国の要求に忠実に応えてその信頼を勝ちえつつ、チャンスをとらえて徐々に「自主独立」に寄せていくという道をたどることになるのです。いわば、米国の顔色をうかがいながらの「自主独立」といえるかもしれません。そして、彼らの一派が戦後の政権を長期にわたって担うことにより、その路線は今日まで続く日本の政治体制の基本方針として定着していくのです。その意味で岸とその一派のはたした役割は、戦後政治の基礎を築いたと称される吉田茂に勝るとも劣らないものといえるでしょう。

 

 1951年、日米安保条約が締結された時、それは臨時のものであり、10年後の改定時には廃棄の可能性もありました。しかし、1960年、その可能性を潰し、真逆の方向へ転じたのが時の総理大臣・岸信介であり、その岸を裏面から支えたのが児玉誉士夫でした。

 最初の安保条約は日本独立後も日本国内に米軍が駐留を継続することだけをうたったものであり、米軍に日本防衛の義務はなく、米国の国益本位のものでした。したがって、当初、米国はこの改定には消極的でした。しかし、冷戦下、1957年にソ連が人工衛星打ち上げに成功し、ミサイル開発競争で優位に立つと、焦慮した米国は極東戦略を最重視し、日本にさらなる協力を求めるようになります。この情勢を好機と見た岸は米国と積極的に交渉を重ね、一方で米軍駐留の半永久的継続という米国の要求に応じるとともに、他方で米国の日本防衛義務を明文化させ、さらに付属文書で駐留軍の軍事行動に関する事前協議も定めさせました。言いかえれば、彼は米国の要求に忠実に従うことにより、この条約を対等な相互防衛条約へと格上げし、日本の相対的独立性と軍事力の強化をめざしたのです。もちろん、また同時に、このことはさらに日本をアメリカの世界戦略の中に深く組み込み、米国の戦争に巻き込まれる危険性をいっそう高めるものでした。そのため国民の中から全国規模の激しい反対運動がおこりました。しかし、岸はそれを強引な手法で押し切り、その難局を切り抜けました。様々な問題をはらみつつも、これにより日本の基本的枠組みは最終的に定まり、以後、再改定されることもなく今日に至るまで継承されているのです。

 

 1972年、岸の弟の佐藤栄作は、戦後最大の課題であった沖縄の本土復帰を果たしました。しかし、その経緯を見ると、佐藤個人の手柄というよりも岸が敷いた路線の延長上であったことがわかります。

 第二次世界大戦後、米国は沖縄を極東戦略の要と位置付け、日本独立後も半永久的にその施政権下に置く方針でした。しかし、1960年代後半、ベトナム戦争対する内外の批判と沖縄住民の祖国復帰運動が高まると、その支配に不安を抱くようになります。この情勢を好機と見た佐藤は、一方で米軍の半永久的な基地使用や核持ち込みを許容することで米国の不安を静めるとともに、他方で沖縄における日本の主権の回復を勝ち取ったのです。もちろん、主権が回復したとはいえ、沖縄の現状は何も変わりませんでした。今日も依然として沖縄の国土の大部分は米軍用地が占め、米国極東戦略最前線の拠点として沖縄の住民は戦争の危険に日夜さらされているのです。

 

 2015年、岸の孫の安倍晋三は安保法制を成立させました。これもまた、その経緯を見ると、まさしく岸の路線そのものといえるかもしれません。

 21世紀に入り、極東における米国の軍事展開は厳しいものになります。2008年、リーマン・ショックを境に米国の国力は凋落。冷戦終結後続いていた米国一極時代は終わりを告げます。そして、その凋落が続く中、中国が着実に経済成長を遂げ、2010年には米国に次ぐ世界2位の経済大国となり、軍事面でも米国を脅かし始めます。それと共に2012年、北朝鮮が米国に対抗するためにミサイル開発を進め、以後、威嚇行為を繰り返します。さらに2014年、ロシアがウクライナのクリミア半島を武力併合し、G8から外されたのを機に米国との関係は悪化します。米露中の新冷戦が激化したのです。これにより米国は極東における有力なパートナーとして日本の軍事的貢献にますます期待を寄せるようになります。この情勢を好機と見た安陪は、一方で米国の要請に応えてその極東戦略の補完を表明するとともに、他方で安保法制を策定して戦後の安保政策を大転換し、日本を戦争ができる国にすべく、その第一歩を踏み出したのです。

 この安保法制の最大のポイントは、従来の政権が掲げてきた「専守防衛」を放棄し、「集団的自衛権の行使」を言明したことです。これにより「敵基地攻撃能力の保有」の許容とあいまって、自衛隊は集団的自衛権の行使として米軍を支援するため、相手国領域にミサイル攻撃などを仕掛けることが可能になりました。また、それとともに、その攻撃能力を保持するためにさらなる軍備拡大の道も開くことになりました。安倍の念願は憲法改正(天皇の元首化、自衛隊の国軍化)でしたが、もし、今後の保守派政権下でそれが実現すれば、岸の宿願だった「敗戦で喪失した日本を取りもどす」ことができるにちがいありません。

 

 最後にこれら釈放されたA級戦犯容疑者の問題とともに「東京裁判」で裁かれなかった重大な戦争犯罪についても触れておきたいと思います。それは731部隊の問題とアヘン密売の問題です。細菌兵器開発と人体実験の中心人物だった陸軍中将・石井四郎は免責となり、中国で「阿片王」とよばれた里見甫は一旦逮捕されましたが、すぐに釈放されました。石井に関して米国政府の関与が疑われ、アヘン密売については依然としてその真相は闇の中のままです。ちなみに、里見の墓碑銘の揮毫は岸信介といわれています。

 

 今、75年前の「東京裁判」終結宣言を振り返るとき、この裁判が中途で終了し、戦犯容疑者の追及が不徹底だったことが、その後の日本にどれほどの問題を残したのか、そして、それがどれほど現在の日本を拘束し、支配しているのか。私たちはその事実に慄然とします。「東京裁判」は過去の問題ではありません。この裁判を考えることは、現在を深く見つめ、未来を真摯に考えることなのです。

 

 防衛省構内にある「市ヶ谷記念館」は、東京裁判法廷の貴重な遺構です。しかし、残念ながら、この記念館の展示コンセプトは、陸士時代から自衛隊市ヶ谷駐屯地時代に至る歴史であり、「東京裁判」に焦点を当てたものではありません。これは非常に残念な事態です。

 この「市ヶ谷記念館」の元である市ヶ谷台1号館は、1937年に建設された陸軍士官学校の本部です。同校移転後は大本営陸軍部・陸軍省として使用されました。敗戦後の1946年、極東国際軍事裁判(東京裁判)はこの1号館の大講堂で開廷されました。

 1960年からは自衛隊市ヶ谷駐屯地として使用されてきましたが、1994年、防衛庁(当時)の市ヶ谷移転により1号館の取り壊しが決定します。しかし、それに反対する市民運動がおこり、その結果、大講堂を含む主要部が保存され、1999年、「市ヶ谷記念館」という名称で一般公開されるに至りました。

 この建物は軍国日本を象徴する場所の一つであると同時に、それが裁かれた場所です。そして、さらには防衛庁(当時)の移転という偶然が重なり、今や日本の軍事中枢が稼働する場所でもあります。過去を振り返り、未来を考える場としてこれほどふさわしい場所はありません

 2010年、ドイツでは「ニュルンベルク裁判」に対する「勝者の裁き」という評価を乗り越えて、その裁判の歴史的な意義を考えるために「ニュルンベルク裁判記念館」が設立されました。そこでは豊富な写真や資料が展示され、過去の戦争と向かい合い、未来を見つめる姿勢が示されています。

 今こそ、このドイツの姿勢に学び、この「市ヶ谷記念館」を「東京裁判記念館」に改称し、東京裁判関係資料を収集し、それらを多角的かつグローバルな視点から展示する場所へと改変すべき時ではないでしょうか。

 

以上

 

2023年4月24日 田中利幸氏が当会の「賛同よびかけ人」に。

田中利幸氏が当会の「賛同よびかけ人」のお一人としてご参加くださることとなりました。田中氏は著名な歴史家で、戦争犯罪を中心とした数々のご研究を積まれてきました。東京裁判関係としては、編著『再論 東京裁判ー何を裁き、何を裁かなかったのか』(大月書店、2013年)があり、また、近著『『検証「戦後民主主義」 なぜわたしたちは戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房、2019年)では、近年の日本の状況に対して鋭い問題提起をされていらっしゃいます。今回の田中氏のご参加は、当会の今後の活動に大きなお力添えをいただくものと確信しております。

なお、田中氏についての詳細は同氏のブログをご覧ください→吹禅YukiTanaka田中利幸

2023年2月18日 調布「憲法ひろば」で講演しました。

第187回調布「憲法ひろば」例会において当会共同代表の長谷川と春日が「ウクライナ戦争時代に考える『靖国神社』と『市ケ谷記念館』」と題して講演を行いました。その要約と聴衆の皆さんのご感想を調布「憲法広場」の佐藤さんが調布「憲法ひろば」のニュースにまとめてくださったので、以下掲載します。

 

ダウンロード
20230222憲法ひろばニュースNo214-1.pdf
PDFファイル 266.9 KB
ダウンロード
20230222憲法ひろばニュースNo214-2.pdf
PDFファイル 247.4 KB

2021年10月3日 戦争遺跡保存全国シンポジウムで報告しました。

第 24 回戦争遺跡保存全国シンポジウム 東京 東大和大会第三分科会において当会共同代表の春日が「東京裁判開廷75 周年を迎えてー東京裁判の<遺産>を継承するー」と題する報告をしました。 

 

 

2021年1月9日 当会が防衛省に提供した写真データの一部が市ケ谷記念館に展示されました。

 2019年11月6日、当会と防衛省との第二回の話し合い(10月11日実施)を踏まえて、防衛省側から米国公文書館所蔵の東京裁判関係の写真データ提供の依頼がありました。そこで、11月24日、当会は写真データ34点を提供いたしました。しかし、その後、防衛省からその活用に関する報告は一切ありませんでした。

 

ところが、昨年の11月21日、その写真データの一部が市ケ谷記念館に展示されているとの情報を朝日新聞記者より得ることができました。そこで、12月25日、福島みずほ事務所を通じて、市ケ谷記念館における写真データの活用状況に関する質問状を防衛省に提出したところ、本年1月7日、以下のような展示状況を示す回答と資料が送られてきました。

 

当会の要求項目全体から見れば、今回の改善点はまだ一部分にすぎません。しかし、二回に渉る防衛省との話し合いの最初の成果であり、当会の活動にとっては大きな一歩といえるでしょう。今後もさらなる改善に向けて粘り強く交渉を重ねていく所存です。 

ダウンロード
防衛省からの回答と資料
【防衛省】提出資料.pdf
PDFファイル 1.7 MB

 

 

2019年11月12日 防衛省に「東京裁判」関係写真データ34点を提供しました

11月6日、防衛省大臣官房広報課杉山専門官より「東京裁判」関係写真データ提供の依頼が当会にありました。これは先月の第2回意見交換会の際、当会が提案した追加参考資料の第5項を受けたものです。すなわち、防衛省は第5項にあるように米国公文書館の了解を得たので、ハワイ大学の戸谷由麻教授が所蔵するデータを提供してほしいとのことでした。当会は早速、戸谷教授にご協力をお願いをして、12日に34点の写真データを提供することができました。当会としてはこの貴重なデータがどのように「東京裁判」の展示に活用されるのか、注視していきたいと思います。

 

 

2019年10月11日 防衛省と第二回意見交換会をおこないました

参議院議員福島みずほ事務所のご紹介で第二回意見交換会を参議院議員会館会議室で行いました。出席者は、当会側は共同代表の長谷川と春日、防衛省側は防衛省大臣官房広報課の杉山専門官、同地方協力企画課の前田係長でした。以下は、当日、防衛大臣宛に提出した文書です。

・・・・・・・・・・・

防衛省市ヶ谷記念館の展示に関する提案

2019年10月11日

 防衛大臣 河野太郎 殿

                            防衛省市ヶ谷記念館を考える会

                                共同代表 赤澤史朗

(立命館大学名誉教授)

 

1.提案

 1)極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)の裁判官、検察官、弁護人、被告人の肖像写真とそのプロフィールを市ケ谷記念館内に展示すること。

 2)東京裁判の経過を図示し、裁判官の判決を市ケ谷記念館内に展示すること。

 

 2.方策

1)肖像写真

新聞社・通信社などのメディア関係および国立国会図書館などの図書・資料館関係のアーカイブスを活用すること。ドイツ連邦共和国のニュルンベルク裁判記念館(The Memorium Nuremberg Trials)における東京裁判コーナーのパネル展示(下の2枚の写真)を参考にすること。場合によっては、当記念館に写真資料の提供についての協力を要請すること。

 

2)プロフィール

東京裁判ハンドブック編集委員会編『東京裁判ハンドブック』(青木書店、1989)の200~211頁に記載された「1.戦争犯罪容疑者逮捕一覧、2.被告一覧、3.裁判官一覧、4.検察官一覧、5.弁護人一覧」を参考に作成すること。なお、「2.被告一覧」の(注)は、被告に対する人物評価に該当するので削除する。

 

3)東京裁判の経過の図示

前掲『東京裁判ハンドブック』281~286頁に記載された「東京裁判関係年表」を参考に作成すること。なお、年表は1978(昭和53)10.17の「靖国神社、東条英機らA級戦犯14名合祀」を最終項目とし、以下の項目は削除する。

 

4)裁判官の判決

前掲『東京裁判ハンドブック』の212~217頁に記載された「6.東京裁判法廷図、7.訴因一覧、8.証拠書類、9.判決一覧」を参考に作成すること。

以上

 

【追加参考資料】

  本日、提出した「防衛省市ケ谷記念館の展示に関する提案」の第2項「方策」の「肖像写真」のデータ入手方法について具体例をいくつか列挙したが、新たに参考となる事例が判明したので、ここに追加したい。

  戸谷由麻氏の著書『東京裁判-第二次大戦後の法と正義の追求-』(みすず書房、2008年)には米国公文書館所蔵の「東京裁判」関係写真が多数掲載されている。この写真データの入手方法について、著者の戸谷氏に問い合わせところ、文章でご回答をいただいたので、当会の責任において以下のようにまとめてみた。また、併せて同書掲載の写真について一覧表も作成したので付記した。ご参考にしていただければ幸いである。

 なお、戸谷由麻氏は、現在、ハワイ大学歴史学部教授、スタンフォード大学フーバー研究所フェロー。アジア太平洋地域の戦犯裁判研究がご専門で、東京裁判研究の権威の一人である。

 記

1)同書で利用した写真は、米国公文書館で公開されている資料であり、著作権の問題は発生しない。

2)ただし、利用する場合には、米国公文書館から取得した資料であることを明記する必要がある。

3)また、上記の件については、念のため米国公文書館にメールで直接問い合わせすることをお勧めする。

4)FE-238の内容はかなり豊富で、一箱に東京裁判関係の写真がたくさん入っている。もし、米国公文書館に行くのであれば、他にどのような写真が入っているのか確認した方が良い。

5)なお、この同書に利用した写真については、私(戸谷由麻)がデジタルデータとして所持している。米国公文書館から了解の回答が得られたならば、それを提供してもよい。

 以上

・・・・・・・・・・・

 

 最初に当会共同代表の春日が、上記の文書中で示した『東京裁判ハンドブック』の当該頁のコピーを防衛省側に提出し、改めて上記の文章について逐一説明をしました。それに対して杉山専門官より以下のような回答がありました。

 

 「前回の意見交換会で申し上げたように市ヶ谷記念館は、陸軍士官学校本部以来、第二次世界大戦中の陸軍参謀本部など、様々な市ヶ谷台の歴史を展示しているので東京裁判に特化することはできないが、東京裁判の展示も書籍を中心に行っている。関係書籍30点を展示し、一部ページを開いているところもある。今回、ご提案の裁判官などの肖像写真なども見開きで展示するような工夫もしている。また、今回ご指摘の法廷の図、裁判官、検察、弁護人、被告の一覧も展示している。さらに、昨年、2月、テレビ東京のドラマ「二つの祖国」の撮影に協力した際、テレビ東京から「極東軍事裁判法廷のシーン」で使用された「証言席」を寄贈していただいた。来館者に東京裁判をイメージしてもらうために、4月から市ヶ谷記念館大講堂1階に展示し、「東京裁判の時、証言台はこのあたりにあった」という説明もしている。このように前回のご意見を含めいろいろ検討している。市ケ谷台の歴史をどのように伝えていったらいいのか、今後もご意見を頂きながら検討していきたい」。

 

 この回答に対して当会から以下の意見を申しあげました。

1)防衛省側の「市ケ谷台」の歴史を展示するという趣旨は理解する。しかし、その歴史の展示の中でどこに重点を置くべきか。それが問題である。戦前、市ヶ谷台が陸軍の中枢であったことはもちろん重要だ。しかし、世界史的視点に立てば、東京裁判の舞台であったことが一番重要だろう。歴史の記述において、ただ単純に事実を羅列するだけということはありえない。歴史の中には重要な局面、山場というものが必ずある。東京裁判こそ「市ケ谷台」の歴史の中で一番重要な局面ではないだろうか。

 

2)東京裁判関連書籍の展示は承知している。しかし、残念なことにその展示には「解題」がない。展示書籍の書名も著者も出版社もわからない。これは資料館における書籍展示として失格である。すぐに改善していただきたい。

 

3)また、東京裁判関連書籍展示コーナーだけが撮影禁止である。理由は「著作権法による」という理由だが、まったく理解できない。また、東京裁判関連書籍だけが撮影禁止で、他の資料・書籍は撮影自由というのも整合性がない。メモを取る時間もないので、撮影できるようにしていただきたい。

 

 最後に、今回提案した内容に対する回答も含め次回の意見交換会を約して散会しました。

 

 

2019年2月19日 防衛省へ「市ヶ谷記念館の展示改善に関する陳情」を提出し、意見交換会を行いました

 防衛省市ヶ谷記念館を考える会は、防衛大臣宛の「防衛省市ヶ谷記念館の展示に関する陳情」を提出しました。福島みずほ参議院議員が紹介議員となった同文の請願書を、2016年10月参議院議長に提出し、外交防衛委員会に付託されました。しかし審査日が会期末となり「審査未了」(事実上の否決)となってしまいました。
請願代表者は、いとう(翫)正敏氏(元日本社会党参議院議員)、請願者は赤澤史朗氏(立命館大学名誉教授)、伊藤真氏(弁護士・伊藤塾塾長)、海渡雄一氏(弁護士・福島みずほ議員のパートナー)、平山知子氏(弁護士・あかしあ法律事務所所長)、山田朗氏(明治大学文学部教授)でした。

 

防衛省に提出した文書は以下の通りです。
・・・・・・・・・・・・・・
         防衛省市ヶ谷記念館の展示に関する陳情

                                平成31年2月19日

防衛大臣 岩屋毅 殿

                           防衛省市ヶ谷記念館を考える会
                               共同代表 赤澤史朗

                              (立命館大学名誉教授)
 

要旨
1.極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)の裁判官、検察官、弁護人、被告人の肖像写真とそのプロフィールを市ヶ谷記念館内に展示してください。
2.極東国際軍事裁判所憲章などを含め、裁判の経過を図示し、その中で検察官の主張、弁護人の主張、被告人の主張、裁判官の判決を市ヶ谷記念館内に展示してください。
3.東京裁判に関する内外の公刊資料を収集し、市ヶ谷記念館内に展示してください。
4.東京裁判に関する映像資料(記録映像)を市ヶ谷記念館内で上映してください。
5.「市ヶ谷記念館」設立の由来に「歴史が刻まれた建造物としての1号館の保存に関する請願採択の国会決議」(平成6年1月)がなされたことを明記してください。
6.市ヶ谷記念館の大講堂内に当時の法廷を復原してください。

  

理由
1.「市ヶ谷記念館」の旧1号館大講堂は、極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)法廷の遺構であり、1998年、貴省(当時は防衛庁)が港区桧町から新宿区市谷本村町の現住地に移転する際、市ヶ谷台旧1号館保存運動がおこり移設復原したものです。現在、貴省は本記念館を中心に見学ツアーを実施されていますが、現行の展示は東京裁判の歴史的重要性を伝える内容とは言えません。市ヶ谷台旧1号館保存運動の目的及び、その運動の結果、参院本会議で採択された「歴史が刻まれた建造物としての1号館の保存に関する請願」(1994年)の趣旨が東京裁判の歴史的重要性にあったことは明白であり、これを踏まえると本記念館の現状は誠に遺憾な事態です。


2.2010年11月21日、ドイツ連邦共和国は「ニュルンベルク国際軍事裁判」法廷上階に「ニュルンベルク裁判記念館 Memorium Nuremberg Trials」を建設しました。同館では実際に使用された被告席や当時の映像資料のみならず東京裁判の展示もあります。その開館式典では独外相は「過去を知らずして、過去から未来のために学ぶことはできない」と述べ、世界史上で重要な役割を果たした裁判をその現場で後世に伝えていく意義を強調したと伝えられています。このようなドイツの姿勢を鑑みるとき、なお一層、本記念館の現状を座視することができません。

 
3.本記念館を構成している旧1号館大講堂は、戦前、陸軍士官学校、大本営陸軍部等に使用された第一級の「戦争遺跡」でもあります。「防衛庁の市ヶ谷移転」という偶然の結果、しかも、本来は消滅する運命であったにもかかわらず、奇跡的に生き残ることができたのです。先の大戦の「裁き」を受けた場所が<防衛省>構内に現存するという事実は世界でも類例がなく、歴史的、文化的、政治的にも見ても貴重な施設です。先の大戦の教訓を継承し、その貴重な遺跡を活用することは、平和主義を理念とする我が国の責務です。
                                               以上
・・・・・・・・・・・・・・

 福島みずほ議員秘書中島浩さんに「防衛省陳情と意見交換会」として参議院議員会館地下1階の会議室をセッテイングして頂き、共同代表の赤澤史朗、春日恒男、長谷川順一の三人が参加しました。防衛省からは、防衛省大臣官房広報課防衛事務官杉山淳紀氏と地方企画室前田氏が出席しました。赤澤から防衛省杉山氏に陳情書を手渡した後、春日から下記の説明資料を使って陳情の趣旨と理由を説明しました。

1)高校日本史B教科書(山川出版、実教出版、東京書籍、清水書院)、中学社会歴史教科書(帝国書院、育鵬社)の該当箇所コピー
全ての教科書には東京裁判法廷写真が使われています。
2)第118回国会参議院内閣委員会会議録第4号のコピー
A級戦犯板垣征四郎の息子板垣正議員(自由民主党)、いとう正敏議員(日本社会党)、聴濤弘議員(日本共産党)は、東京裁判についての評価の相違はあったが、歴史的文化財としての士官学校一号館は、保存すべきであるとの見解は一致した。
3)「市ケ谷台1号館保存運動略年表」(春日恒男「市ケ谷記念館の成立」『文化資源学』第8号2010年3月31日)のコピー
(4)平成5年12月1日新宿区議会議員提出議案「市ヶ谷台一号館の保存を求める意見書」を全会一致で可決したコピー
現職区議だった長谷川順一の名前もあります。
(5)ニュールンベルグ国際軍事法廷記念館の図録コピー
東京裁判の被告名などの展示パネルがあります。
(6)市ヶ谷記念館展示品一覧並びに展示品見取り図(防衛省情報開示請求したもの)
4つのガラスケースに、13の書籍名と1ヶのパネルがあります。
(7)新宿区発行「新宿区平和マップ」
防衛省敷地は、新宿区内の戦争遺跡になっています。

 

 防衛省杉山専門官からは以下の発言がありました。

 「市ケ谷記念館の大講堂というものはもともと昭和12年に陸軍士官学校本部として建てられ、戦時中は参謀本部、陸軍省が置かれ、戦後、昭和21年から23年、東京裁判が行われた建物であり、歴史的意義のある建物であり、国会の審議であるとか、保存の請願の採択をふまえて残されたものである。

 現状としては、東京裁判の様子を撮影した写真6点、裁判に関する図書26冊、裁判で使用されたものと同じ地図を掲示している。見学者に対しては「市ケ谷台の歩み」という映像を見せているが、その中で東京裁判を紹介している。
 東京裁判が行われたということは歴史的な意義が当然あると思うが、それ以外にも陸軍士官学校、陸軍省、参謀本部が置かれたという様々な経緯をふまえると東京裁判だけに集中してしまうのもなかなか適切ではないのかなということで、現状の姿になっている。東京裁判以外にも、市ヶ谷台にまつわるもの、陸軍士官学校ゆかりのあるものを展示している。
 今回頂いたご意見をふまえつつ、今後の展示の充実に意を尽くしていきたい。当然の話であるが、防衛省は東京裁判の当事者ではないので、手元に一次資料はない。どこからか寄贈、買取の上、権利を明らかにして展示する必要がある。皆さんの方で資料をお持ちであるとか、どこに資料提供を依頼してよいのかご教示いただければありがたい」。

 考える会側からは以下の発言をしました。


1)東京裁判に関する情報は提供したい。
2)展示には、ニュールンベルグ裁判と東京裁判の世界史的な国際的視野が必要である。
3)目黒から移転してきた防衛研究所史料閲覧室には、専門家もいるので連携してもらいたい。
4)戦犯が収監され、処刑場があった「スガモ・プリズン」跡の池袋サンシャインビルと豊島区立公園が入った「東京裁判マップ」をつくって欲しい。

 

 今後も、この様な意見交換会を行うことを約束して散会しました。
 

当会共同代表の赤澤史郎が防衛省担当者に陳情書を渡す
当会共同代表の赤澤史郎が防衛省担当者に陳情書を渡す

 

 

2018年11月30日 国際シンポジウムで当会共同代表の春日恒男が「市ケ谷記念館」について基調報告

  侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館、南京大虐殺史及び国際平和研究院共催の学術シンポジウム「多元的な視野から見た日本の中国侵略及び南京大虐殺の研究」(会場:中華人民共和国・江蘇省会議中心)で当会共同代表の春日恒男が「市ケ谷記念館を「東京裁判記念館」へ」と題した基調報告を行いました。

 

  

 

2018年11月17日 当会共同代表の二人が東大駒場の国際シンポジウムに参加し、パネラーと会見

 東京大学・ドイツ・ヨーロッパ研究センター(DESK)主催の「東京判決70周年・国際刑事裁判所ローマ規程採択20周年記念シンポジウム『国際刑法におけるニュルンベルク裁判と東京裁判の今日的意義』」(会場:東京大学駒場キャンパス)を共同代表の長谷川順一と春日恒男が参加しました。休憩時間に主催側の東京大学教授・石田勇治氏のご紹介で、パネラーの戸谷由麻氏(ハワイ大学教授)とDr Viviane E .Dittrich (国際ニュルンベルク原則アカデミー)のお二人とお会いし、当会の趣意と活動をお伝えしました。

 

 

2018年11月11日 東京裁判判決70年吉田裕氏(一橋大学大学院特任教授)の記念講演会「日本人の歴史認識と東京裁判」を実施、参加者は232人

 当会主催の東京裁判判決70年記念講演会「日本人の歴史認識と東京裁判 講師・吉田裕(一橋大学大学院特任教授)」が永田町・星陵会館で行われました。232人(中・高・大学生14人)の参加で、成功裏に終了しました。
 富士国際旅行社黒田朝陽さんの司会で始まり、共同代表の赤澤史朗(立命館大学名誉教授)による開会挨拶の後、同じく共同代表の川口重雄と春日恒男が「防衛省市ヶ谷記念館とは」と題し、市ケ谷記念館の解説と映像紹介をしました。吉田裕氏には「日本人の歴史認識と東京裁判」と題し、豊富な資料を使った記念講演をして頂きました。 質疑応答の後、川口重雄から「今後の考える会の活動・来年の活動」を提議し、参加者の協力を訴えました。最後に、共同代表の長谷川順一が、閉会の挨拶をして終了しました。 
 

 

 

2017年11月12日 「東京裁判開廷71周年記念イベント第二弾」ー共同代表の赤澤史朗(立命館大学名誉教授)の記念講演 + 新宿平和マップ「市ケ谷コース」のフィールドワークーを実施

主催:当会・新宿平和委員会・新宿区婦人問題を考える会
 第一部は前回と同じくJR市ヶ谷駅に集合し、長谷川順一(東京の戦争遺跡を歩く会)が同じコースを説明をしました。
 第二部は、司会は太田正一氏(新宿平和委員会・富士国際旅行社代表取締役社長)、新宿区婦人問題を考える会石川久枝氏の開会あいつで始まり、川口重雄(丸山眞男手帖の会)と春日恒男(文化資源学会)が「今も遺る極東国際軍事裁判所法廷ー「防衛省市ヶ谷記念館」ー」を映像で報告。赤澤史朗(立命館大学名誉教授)が「東京裁判と戦後日本 ー東京裁判史観の亡霊ー」と題して講演があり、質疑応答の後、各団体からの訴え、長谷川順一が当会の活動を提案しました。近藤明氏(新宿平和委員会々長)から閉会のあいさつで終了しました。会場カンパは5,600円でした。参加者の皆さんにご協力を感謝申し上げます。

 

 

以下、赤澤史朗の記念講演「東京裁判と戦後日本 ー東京裁判史観の亡霊ー 」の概要を掲載します。

                    

     

はじめに  

東京裁判(International Military Tribunal for the Far East(極東国際軍事裁判))の概要

 

① (問題点)「勝者の裁き」であって、連合国の責任を不問に。判検事は全員連合国側。

 

②(意義)1931年(満洲事変)から日中全面戦争(1937年、華北分離工作の一環)を経て、アジア太平洋戦争(1941年、三国同盟によるドイツの勝利に期待)とその敗戦(1945年)に至る戦争が、日本の侵略戦争であることを立証

→ サンフランシスコ講和条約第11条で、東京裁判を含む全ての戦争裁判の判決を受諾 =日本が国際社会へ復帰するための条件

 

③(政府・文科省の立場)日本の過去の戦争が侵略戦争であったことを、青少年に公教育の上で教えることを、嫌い妨害。→ 日本の近現代史・東京裁判について無知

 

「東京裁判史観」批判

1981年、文科省が教科書検定によって「侵略」の二字を削除、これに中国・韓国が反発し、いわゆる「近隣諸国条項」の成立。これを小堀桂一郎が批判し、日本人はかつて占領軍の出版検閲によって、全て日本が悪いという「東京裁判史観」によって洗脳。これから脱却しなければならないと主張。

 

  ※「失敗は失敗の元」(長尾龍一) → これで良いのか?

 

 

1.前史

 1945年8月8日 ロンドン協定(米英仏ソ):重大戦争犯罪人の処理方式決定、ナチス指導者を裁く「国際軍事裁判所憲章」

 

※裁判の形式を執るにあたり、アメリカのスティムソン陸軍長官が、挙証などの手続き上の要件を緩和するため「共同謀議」罪を導入することを提起

 「共同謀議」罪:英米法特有の概念、「違法な行為、またはそれ自体は適法な行為を、違法な方法で行おうという二人以上の合意」と定義、二人以上の違法が合意があればそれだけで独立犯罪が成立する点が特徴(犯罪の予備以前の段階を処罰)。全く面識の無い人の間でも犯罪計画の実行への合意は成立する。その合意の成立は明示的、暗黙のうちを問わず、会合への参加など間接的状況から推測して証明されればよい。状況証拠で立証が可能とされる。

1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判(国際軍事裁判=International Military Tribunal、米英仏ソの4大国が裁く)。短い期間で決着

 

1946年10月~1949年4月、ドイツ分割占領の米軍政府が単独で開いた12の継続裁判→ 絞首刑24名、終身刑20名などの判決(ただし51年に減刑)

 

※1945年12月 連合国管理委員会は、ニュルンベルク継続裁判で、戦時中ドイツ人がドイツ人などに対して行った「人道に対する罪」を、ドイツ人裁判官が裁くことを認める。

 

 

2.極東国際軍事裁判所憲章

 1)憲章の制定

1946年1月19日 極東国際軍事裁判所憲章布告(SCAPが布告)、内容は国際軍事裁判所憲章(ニュルンベルク裁判)に準拠、一部改定、

 

2)裁判所の構成

 

①判事・検事

(東京裁判)極東委員会11カ国から推薦のあった判事をSCAPが任命、裁判は判事の過半数の出席で成立、裁判長固定(マッカーサーの指名したオーストラリアのウェッブ)、検事はSCAPが主席検察官1名を任命、他の極東委員会諸国は参与検察官を推薦

 

②裁判の当事国

1)極東委員会11カ国が判事・検事を出すシステム、すべてが連合国で中立国なし

 

ドイツにあっては反ファシズム抵抗主体=多数の亡命ドイツ人の存在→継続裁判でのドイツ人裁判官。日本の場合抵抗者の不在=戦争協力の点で誰もが五十歩百歩であり、裁ける人がいない、「勝者の裁き」を許す根拠

 

2)英米圏諸国中心

 イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド  (英連邦5)

 アメリカ、フィリピン                    (アメリカ圏2)

 中国                            (英米圏1)

 フランス、オランダ、ソ連 (非英米圏)

 

→ ニュルンベルク裁判での4大国対等に対し、東京裁判における米英の圧倒的な主導性

 

3)罪の種類(憲章第5条、A~C級)

 

A項(平和に対する罪):侵略戦争の共同謀議・計画準備・開始・実行 → A級戦犯

戦争違法観(第一次世界大戦後の国際条約・国際的宣言、1928年8月 パリ不戦条約第1条の戦争放棄 →違反した場合の刑事罰なし)

     +

指導者責任観(国民責任観と対蹠的な考え方)(政策的判断)。

 

 被告人の責任(憲章第6条):被告の公務上の地位や、政府・上司の命令でおこなったという事実は、責任を免れさせるものではない。ただし刑の軽減のためには考慮する

 

※違法な国家の命令に国民である個人は服従してはならない、罪と罰とは別だ

 

B項(通例の戦争犯罪):1927年10月ハーグ陸戦規則、1929年ジュネーブ条約

一般民衆の拷問、強姦、非人道的状態下の一般民衆の抑留、掠奪、俘虜の虐待、など

 

C項(人道に対する罪):人種的・宗教的等の理由での迫害・奴隷的酷使・追放・殺人

 

☆問題点

①事後法(遡及法)による裁判 →近代法の原則(罪刑法定主義)に背くとの批判

 

(批判)ⅰ)横田喜三郎『戦争犯罪論』:最も重要なのはそれが「実質的に犯罪としての性質を有するか、従って処罰されるべき理由があるかということ」、

 戦争違法観は既に国際法上に存在しており、罪はあったが刑は規定されていなかった、

 

ⅱ)戒能通孝「極東裁判」:世界の民主主義革命戦争の中の革命裁判のひとつ。全ての革命派は奪権した権力を守るために、事後法で立法。

 

② 訴因における「平和に対する罪」の比重 → 大き過ぎるのではないかとの疑問

現実には、イギリス・中国・フィリピンなど各国検察官から、捕虜虐待などの通例の戦争犯罪に関する自国の国民・軍人の証人・証言が多数提出され、BC級の犯罪の審理が重視

 

 

3.被告の選定と裁判の経過

 1)被告の選定

☆裁判途中で免訴となった3名(死亡など)を除いて、25名被告には全員有罪の判決。

 

1946年3月2日 コミンズ・カーが委員長の執行委員会設立、参与検察官とキーナン主席検事の参加する会議の全会一致で被告人を選定するというシステムを決める

 

「田中隆吉尋問調書」と「木戸幸一日記」が被告の選定に大きな役割

1946年4月8日 参与検察官会議で26名の被告決定

4月13日 ソ連の判検事が到着→17日 2名(重光葵、梅津美治郎)の被告追加

2)天皇の不訴追

①日本側の立場

45年11月5日 幣原内閣閣議決定「戦争責任等に関する件」天皇の責任否定の基準策定

46年3月~4月(東京裁判直前)→「昭和天皇独白録」 「立憲君主論」

 

☆天皇を戦犯として裁くことに反対の意見は、支配層、国民の圧倒的多数の支持。その点でもし連合国が天皇の訴追を強行すれば、アメリカ占領軍の日本占領統治は不安定化する可能性。

 とはいえ、天皇の自発的退位論は浮上。 

 

② 連合国の立場

天皇の訴追に強硬に反対なのは、SCAPのマッカーサー。1946.1.25陸軍参謀長宛書簡での不訴追の勧告。

→ 46年4月3日の極東委員会で、天皇の不訴追決定

 

※天皇の不起訴は占領統治への利用という政治的理由

 

3)起訴状

1946年4月29日 起訴状 重複が多い55の訴因(ニュルンベルク裁判では訴因4)

 

(起訴状の罪の種類)3類に分類

第1類 平和に対する罪(訴因1~36)判決では共同謀議の第1訴因他8訴因が認定

第2類 殺人(訴因37~52):真珠湾攻撃による死者、憲章にはこの罪の規定なし → 判決では全部の訴因が認められず

第3類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因53~55)→判決ではその共同謀議の訴因53を除く、2訴因が認定

 

4)裁判の経過

裁判用語は英語と日本語とされたが、実際には他の言語での証言・発言も行われた。二重通訳や誤訳とその訂正問題が生じ、裁判が遅延する大きな原因となる

 

1946年5月3日 開廷 → 起訴状朗読(28名起訴)

 

①検察側立証段階(46.6.13~47.1.24、7ヶ月以上) 

「平和に対する罪」:日独伊三国同盟による世界征服の共同謀議の立証、など

 BC級戦争犯罪:

   南京事件(1937年12月国民政府首都の南京が陥落した直後に起きた、日本軍による大量の中国人捕虜の虐殺や強姦事件)の立証

「戦争法規違反」の立証(46年12月~47年1月):「バターン死の行進」、泰緬鉄道建設など各地の捕虜に対する俘虜虐待、病院船への攻撃など「通例の戦争犯罪」を立証、

②弁護側立証段階(47.2.24~48.2.10、約1年)

46年6月18日 日本弁護団総会:「国家弁護」(アジア太平洋戦争は自衛戦争)を主とし、「個人弁護」はその範囲内で行うこと、という提案。弁護人は、「国家弁護」中心か「個人弁護」中心かで分かれる。

英米法の裁判に通じたアメリカ人弁護人を、占領軍が選任・費用を負担。 

 

③ 1948年4月16日 審理終了(この間に大川免訴、松岡・永野病死)

 

5)判決

裁判官の過半数の出席で法廷が成立することを根拠に、英パトリック判事を中心に多数派(7カ国=英・米・中・ソ・カナダ・ニュージーランド・フィリピンが参加)が形成。

 排除されたウェッブ裁判長(オーストラリア)・ベルナール判事(フランス)・レーリンク判事(オランダ)・パル判事(インド)の4裁判官へは多数派判決草案の写しが配布されたのみで、討議には参加させてもらえなかったらしい

 

 パル判事少数意見:「日本無罪論」は誤訳。パルは捕虜虐待・虐殺などに関しては、捕虜を迫害した現地軍司令官・捕虜収容所長の責任で、この問題に関し日本の頂点的指導者の責任は問えないとの主張。全体に国家弁護の日本側弁護団に近い発想。→1966年 勲一等瑞宝章授与

 

中里成章『パル判事』(岩波新書、2011年):パルは、同じベンガル州出身のインド国民会議派左派(対英武力独立派)の、チャンドラ・ボースに近い考え方に立ち、この時期の日本の指導者に親近感を抱いていた可能性がある人物。

 

1948年11月4日~12日 判決公判、刑の宣告(多数派判決)

全被告有罪

*絞首刑となった7人は、いずれも訴因54・55のBC級の戦争犯罪で有罪と判決された者10名の中から選出

12月23日 東条英機以下7名絞首刑

 

*天皇の戦争責任に関する判決文少数意見

フランス・ベルナール判事反対意見:「木戸幸一日記」などの証拠から、天皇裕仁は「容疑者の一人」であり、天皇が不訴追だったことで他の被告にとって「不利益」が生じた

 

オーストラリア・ウェッブ裁判長別個意見:天皇には「平和に対する罪」に関し、開戦の責任があるが、天皇の不訴追は、連合国の一致した利益に基づいて決定された。しかし、有罪とされた被告の量刑は、「天皇の免責」という事実を考慮に入れて決めるべきだ。

 

☆A級戦犯被告28名の訴追が4月29日、東条英機以下7戦犯の絞首刑が12月23日

 

 

「東京裁判史観」批判の問題点

 「東京裁判史観」批判は、東京裁判を裁判の形を取った報復に過ぎないと見ている。もし侵略戦争と日本人が認めたら、日本は「犯罪国家」の烙印を押されてしまうという危機感。しかしこの点は日本が侵略戦争であることを認めないから、周辺諸国の不信用が続くのであって、その逆ではないだろう。

・・・・・・・・・・・・・・

以上

 

 

 

2017年8月20日 東京土建一般労働組合の平和共同取材の記事が同組機関紙「けんせつ」に掲載

↓掲載記事はこちらから

 http://www.tokyo-doken.or.jp/news/news2017/2219/2219-06-07.pdf

 

 

2017年7月16日 東京土建一般労働組合の平和共同取材の申し入れにより、当会がフィールドワークと講演会を実施

 東京土建一般労働組合本部教宣部から平和共同取材の申し入れがありましたので、当会は同組合各支部の教宣担当者50名を対象に、フィールドワークと講演会(会場:土建会館)を実施しました。

①フィールドワーク「市ケ谷周辺の戦争遺跡」担当:共同代表の長谷川順一

②講演第1部「市ケ谷台の歴史ー市ケ谷台は戦争遂行の中枢ー」担当:共同代表の川口重雄

③講演第2部「東京裁判と市ケ谷記念館の展示改善問題」担当:共同代表の春日恒男

フィールドワークで市ヶ谷台の歴史について解説する共同代表の長谷川順一
フィールドワークで市ヶ谷台の歴史について解説する共同代表の長谷川順一

 

 

2017年4月30日 「東京裁判開廷71周年記念イベント」ー東京裁判と防衛省市ヶ谷記念館の展示を考える集い+ 新宿平和マップ「市ケ谷コース」のフィールドワークーを実施

主催:当会・新宿平和委員会・新宿区婦人問題を考える会
 第一部は、JR市ヶ谷駅改札口に集合し、長谷川順一(元新宿区議会議員)が「新宿区平和マップ」に掲載されているの市谷亀ヶ岡八幡宮境内の「八紘一宇石碑」「陸軍省所轄地・陸軍省用地」境界石を案内しました。3月末に新宿区が登録有形文化財指定をした、境内手水鉢の「几号水準」も併せて説明をしました。境内駐車場から「陸上自衛隊市ヶ谷基地弾薬庫」を、左内坂区道フェンス越しに「ペトリオッットミサイルPAC-3の常設地下弾薬庫」を説明しました。その後、防衛省正門から防衛省A棟(屋上ヘリポートがある地上19F、中央指揮所と日米共同調整所がある地下4F)や高さ220㍍の通信塔などを説明しました。公開が強く要望されている「大本営地下壕」のコンクリート壁を見ながら、第二部の会場「新宿区立ウイズ新宿会議室」に到着しました。

 第二部は、司会は太田正一氏(新宿平和委員会・富士国際旅行社代表取締役)、長谷川の開会あいつで始まり、川口重雄(丸山眞男手帖の会)が「市ヶ谷台は戦争遂行の中枢・大本営陸軍部」を報告、春日恒男が「東京裁判と市ヶ谷記念館の展示改善問題」を報告、赤澤史朗(立命館大学名誉教授)から「東京裁判の歴史的意義」について補足発言がありました。質疑討論の後、近藤明氏(新宿平和委員会々長)から閉会のあいさつで終了しました。

レジュメや資料が不足するほどの参加者で会場は満席となり、会場カンパは15,801円と郵券1,298円でした。参加者の皆さんにご協力を感謝申し上げます。

 

2016年12月14日 参院外交防衛委員会で「市ケ谷記念館の展示改善に関する請願」が保留

参院外交防衛委員会で「市ケ谷記念館の展示改善に関する請願」が協議された結果、保留となり、事実上の却下となった。

請願の結果はこちらから→第192回国会 外交防衛委員会議事録サイト

 

 

2016年11月23日 15年戦争と日本の医学医療研究会「第40回研究会」で当会共同代表の春日恒男が特別講演を行う

 15年戦争と日本の医学医療研究会主催の「第40回研究会」(会場:東京大学医学部教育研究棟セミナー室)で当会共同代表の春日恒男が特別講演「市ケ谷記念館を<東京裁判記念館>へ」を行いました。

その詳細はこちらから→「15年戦争と日本の医学医療研究会会誌」サイト

 

 

2016年11月4日 参院外交防衛委員会に「市ケ谷記念館の展示改善に関する請願」が付託

 

 

2016年10月27日 参院で「市ケ谷記念館の展示改善に関する請願」受理

参院で「市ケ谷記念館の展示改善に関する請願」が福島みずほ参議院議員の紹介により受理された。

 

当会共同代表の春日恒男と福島みずほ参議院議員
当会共同代表の春日恒男と福島みずほ参議院議員

   


2016年8月21日 「第20回戦争遺跡保存全国シンポジウム長野県松代大会」で当会共同代表の春日恒男が発表
 春日は本大会の第3分科会において「市ヶ谷記念館を「東京裁判記念館」へ」という報告を発表しました。以下はその発表レポートの全文です。


はじめに
 2016年1月、川口重雄(丸山眞男手帖の会代表)、春日恒男(文化資源学会会員)、長谷川順一(元新宿区議会議員)の三名は、東京裁判開廷70周年を期して、防衛省に対し市ケ谷記念館の展示改善を要求することを決意し、同年3月末日、「ご賛同のお願い」(第5章参照)に資料三点※を付して有識者33名に配布した。その結果、現在6名の代表賛同人を得ている。次の段階として、これらの代表賛同人を中心に国会への請願書提出を目指し、今秋以降召集予定の臨時国会でのロビー活動を計画中である。以下、なぜ市ヶ谷記念館を「東京裁判記念館」にすることが緊急の課題なのか、その理由を述べてみたい。そして、その趣意はそのまま<平和博物館と次世代への継承>という本分科会のテーマに沿うものと信じる。
 ※①「ナチスを裁いた法廷、記念館に ドイツ」(『朝日新聞』2010年11月22日付記事)、②「図表3 市ヶ谷台1号館保存運動略年表」(春日恒男「市ケ谷記念館の成立」『文化資源学』第8号、2010年、47頁)、③第128回国会 参議院内閣委員会議事録 第4号 1~33頁)。

1.市ケ谷記念館
 「市ヶ谷記念館」とは、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地1号館の一部を同駐屯地西端(現在の防衛省庁舎B棟西側)に移設復原した建物である(1998(平成10)年10月に完成)。この建物は大講堂等の4つの施設を選別し、再構成したもので、「1号館」の約十六分の一に当たる。ちなみに「1号館」は次のような歴史を持つ。1937(昭和12)年6月、陸軍士官学校本部として建設され、1941年から敗戦まで大本営陸軍部等として使用。敗戦後の1946年に極東国際軍事裁判所法廷(以下、東京裁判法廷)が開設された後、1960~94年まで陸上自衛隊東部方面総監部、各自衛隊幹部学校等として使用された。すなわち、同記念館は戦前、戦中、そして戦後を含め第一級の<戦争遺跡>なのである。

2.成立の経緯
 同記念館の成立には「市ヶ谷台1号館保存運動」が深く関与している。1987年、防衛庁は同庁庁舎(当時、六本木に所在)の市ヶ谷移転を機に「1号館」取り壊しを決定した。しかし、1991年、TV報道を契機に「市ヶ谷台1号館の保存を求める会」が保存運動を起こし、1992年、板垣正(自民党)、翫(いとう)正敏(社会党)などの国会議員の協力により超党派の運動へと発展する。1993年11月、参院内閣委の審議の結果、時の防衛庁長官が再検討を決断し、防衛庁は取り壊しから「一部保存」に一転した。しかし、翌1994年1月、参院本会議が全会一致で「保存に関する請願書」採択したにもかかわらず、防衛庁は「全面保存」を拒否する。その後も保存運動側は裁判やデモ等の行動に訴えるが、ついに「全面保存」は実現せず、現在の「市ヶ谷記念館」が誕生した。

3.「昭和史記念館(仮称)」案
 保存運動側は、「一部保存」決定後も「1号館」を「昭和史記念館(仮称)」という<歴史博物館>として活用する案を提起していた。さらに保存運動内部では、その展示内容として、先の大戦に対する肯定・否定の両論を併記し、その評価は来館者各自の判断に委ねるという案も議論されていた。もちろん、この案には歴史認識で対立する左右両派が大同団結するための妥協という側面あったことは否めないが、しかし、これを機に両者が互いの歴史認識を冷静に議論したという事実は注目してよい。残念ながらこの案は採用されなかったが、もし、この<歴史博物館>が実現していたら、日本人自らが自国の過去と正面から向き合う契機となっていたであろう。

4.「東京裁判記念館」設立の理由-世界史の中の東京裁判
 東京裁判に対する賛否は同裁判開廷時より様々な観点から行われてきた。そして、それは今日まで継続しており、その意見は各々一面において妥当であることは事実である。この論争は将来も継続するであろうし、継続しなければならない。しかし、肯定派であれ否定派であれ、以下のような同裁判の世界史的な意義は、おそらく何人も否定できないと思われる。
 第一に、同裁判がニュルンベルク裁判とともに世界史上最大の戦争である第二次世界大戦の終結点であったこと。第二に、サンフランシスコ条約第11条において同裁判の判決受諾が日本の法的義務と規定されたこと。周知のように、サンフランシスコ条約は今日まで続く国際秩序の根本である。同裁判は現在の国際秩序の礎と言っても過言ではないのである。第三に、同裁判がニュルンベルク裁判とともに戦争犯罪人を裁くという国際法の発展の端緒となったことである。この三点だけで「東京裁判記念館」の設立理由は十二分である。これ以上の理由が必要であろうか。それでもあえて付言するならば、とりわけ第三の点を強調しておきたい。同裁判とニュルンベルク裁判以前に、戦争を行った国家と指導者を裁く裁判は世界史上存在しなかったのである。この歴史的意義は大きい。もちろん、「事後法」、「中立性」等の様々な問題点は残った。しかし、「平和に対する罪」「人道に対する罪」を確定し、個人の戦争責任を世界史上初めて問うたという歴史的事実だけは忘却すべきではない。現代においても旧ユーゴ国際法廷でも継承され、これこそ人類の未来へつながる重要な課題なのである。
 戦後70年を過ぎ、戦後体制は大きな曲がり角に来ている。世界の各地で排外主義とナショナリズムが台頭している。大戦の反省から生まれた戦後の国際協調の精神は忘却され、大戦の原因となった戦前の偏狭な自国中心主義に回帰しつつある。2016年の今こそ、戦争の終わりと平和の始まりの狭間に屹立する「東京裁判記念館」が必要とされる時はない。

5.現状と提案
 現在、市ヶ谷記念館は、防衛省により一般公開されている。しかし、その展示に保存の経緯や保存運動への言及もなく、もちろん保存運動が提起した活用案はまったく反映されていない。極言すれば、防衛省当局は「東京裁判」の舞台という同記念館がもつ歴史的重要性を意図的に抹殺していると思わざるを得ない現状である。ちなみに、2008年、元保存運動関係者有志は、同記念館を「極東国際軍事裁判記念館」と改称し、東京裁判関係資料を中心に展示せよという要望を当時の防衛大臣あてに提出したが、今日に至るまで防衛省側の反応はないようである。以下の文は「はじめに」で言及した有識者宛の「賛同のお願い」全文である。改善要求の6項目はそのまま国会請願書に記載する予定である。ご一読いただき、ご賛同いただければ幸いである。

ご賛同のお願い
 「市ヶ谷記念館」とは、防衛省庁舎B棟西側にある施設です。本記念館を構成している旧1号館大講堂は、極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)法廷の遺構であり、1998年、防衛省(当時は防衛庁)が港区桧町から新宿区市谷本村町の現住地に移転する際、保存運動がおこり移設復原したものです。

 現在、防衛省は本記念館を中心に見学ツアーを実施していますが、現行の展示は東京裁判の歴史的重要性を伝える内容とは言えません。保存運動の目的及び、その運動の結果、参院本会議で採択された「歴史が刻まれた建造物としての1号館の保存に関する請願」(1994年)の趣旨が東京裁判の歴史的重要性にあったことは明白であり、これを踏まえると本記念館の現状は誠に遺憾な事態です。2010年11月21日、ドイツ連邦共和国は「ニュルンベルク国際軍事裁判」法廷上階に「ニュルンベルク裁判記念館 Memoriam Nuremberg Trials」を建設しました。同館では実際に使用された被告席や当時の映像資料のみならず東京裁判の展示もあり、その開館式典では独外相が「過去を知らずして、過去から未来のために学ぶことはできない」と述べ、世界史上で重要な役割を果たした裁判をその現場で後世に伝えていく意義を強調したと伝えられています。このようなドイツの姿勢を鑑みるとき、なお一層、私たちは本記念館の現状を座視することができません。

 本記念館を構成している旧1号館大講堂は、戦前、陸軍士官学校、大本営陸軍部等に使用された第一級の「戦争遺跡」でもあります。「防衛庁の市ヶ谷移転」という偶然の結果、しかも、本来は消滅する運命であったにもかかわらず、奇跡的に残存することができたのです。昨年、「安保法」が国会で成立し、新たな戦争の可能性はますます高まってきました。今こそ、先の大戦の「終わり」を迎えた場所であり、その大戦の「裁き」を受けた場所、換言すれば、戦前と戦後の結節点を象徴する場所、まさにその場所が<防衛省という現役の軍事中枢>に存在するという重大な事実を国民全体で真剣に受け止め、本記念館の在り方を根本から見直すべき時ではないでしょうか。
 2016年、東京裁判開廷70周年を迎え、私たちは、以下、列記したように「市ヶ谷記念館」の歴史的重要性に相応しい展示内容に変更することを目下の急務と考えます。私たちの趣意にご理解いただき、下記の展示改善案にご賛同賜りたくお願い申し上げます。

 尚、ご賛同頂きましたら、代表賛同人となって頂き、以後広く個人・団体から賛同者・賛同団体と賛同金を募っていきたいと考えております。講演会や学習会を開催しながら、一定の時期に準備会から正式な会に致すつもりです。その後は、防衛大臣宛の陳情書と超党派の紹介議員で国会請願書として提出する予定です。また、参考資料として参議院内閣委員会の議事録も同封致しました。ご賢察の上、何卒ご協力賜りますよう重ねてお願い申し上げます。

                            記

1)極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)の裁判官、検察官、弁護人、被告人の肖像写真とそのプロフィールを館内に展示すること。

2)極東国際軍事裁判所憲章などを含め、裁判の経過を図示し、その中で検察官の主張、弁護人の主張、被告人の主張、裁判官の判決を館内に展示する
こと。

3)東京裁判に関する内外の公刊資料を収集し、館内に展示すること。

4)東京裁判に関する映像資料(記録映像)を館内で上映すること。

5)「市ヶ谷記念館」設立の由来に「歴史が刻まれた建造物としての1号館の保存に関する請願採択の国会決議」(平成6年1月)がなされたことを明記す
ること。

6)大講堂内に当時の法廷を復原すること。
                                               以上

2016年3月31日
防衛省「市ケ谷記念館」を考える会(準備会)世話人
川口 重雄(丸山眞男手帖の会代表)
春日 恒男(文化資源学会会員)
長谷川順一(元新宿区議会議員)

 

 

2016年3月31日 参院「市ケ谷記念館の展示改善に関する請願」を実施

参議院へ「市ケ谷記念館の展示改善に関する請願」を実施した。請願人は、代表の翫(いとう)正敏(元参議院議員)他4名(赤澤史朗(立命館大学名誉教授)、伊藤真(弁護士、伊藤塾塾長)、海渡雄一(弁護士)、平山知子(弁護士)、山田朗(明治大学教授)

請願の要旨はこちらから→参議院の請願サイト

 

 

2016年3月 「防衛省「市ケ谷記念館」の展示を考える会」ご賛同のお願い配布

「ご賛同のお願い」に資料三点を付して有識者33名に配布した。

 

 

2016年1月 「防衛省「市ケ谷記念館」の展示を考える会」(後に「防衛省・市ケ谷記念館を考える会」に改称)を結成。

川口重雄(丸山眞男手帖の会代表)、春日恒男(文化資源学会会員)、長谷川順一(元新宿区議会議員)の三名は、東京裁判開廷70周年を期して、防衛省に対し市ケ谷記念館の展示改善を要求することを決意し、「防衛省「市ケ谷記念館」の展示を考える会」を結成。「市ケ谷記念館」の展示改善要求運動を開始した。



2015年 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の芦鵬氏が当会共同代表の春日恒男の論文を翻訳

 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館の館員の芦鵬氏が共同代表の春日恒男の論文「極東国際軍事裁判記念館設立について」(『季刊戦争責任研究』第75号所収)を中国語に翻訳し、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館機関誌『日本侵華史研究』(2015年、第1巻、南京出版社)に掲載しました。中国語訳の題名は 「有关建立“远东国际军事法庭纪念馆”的问题」です。